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伊王島 俊寛

再びの長崎。

長崎のランタンフェスティバルも終わる2月末。
私は凝りもせず、再び長崎にいた。

長崎空港は大村湾に浮かぶ海上空港。
レンタカーの送迎車のドライバーさんに伺うと、もとから島だったという。
元々の空港を廃し、本土側から島に橋を架けて、空港化した。

そういえば、飛行機から、本土側に滑走路も見えた。
それが元の空港なのだろう。

レンタカーを借り、晴れた空の下、港へ向かった。

前回は、長崎市内を横断して、長崎港からフェリーに乗ろうとして失敗した。
今回は、もう一つ先にあって、渋滞の心配がない伊王島港からフェリーに乗り込むルートをとった。

―というか、、、12年前に、島に行った際も伊王島港からフェリーに乗っていたので、前回(二週間前)はすっかりその事実を忘れていた。

9時に空港に着き、伊王島港には10時過ぎに着いた。

11時50分のフェリーには少し早い。

気になることもあったので、島を散策することにした。

島に渡るフェリーの名前が”俊寛”であった事。
伊王島港の伊王島の読み方が、”いおうじま”であった事。

歴史好きで、出身である茅ケ崎から、鎌倉が近かったこともあり、源平合戦の辺りは、少し詳しい。

”俊寛(しゅんかん)”は歴史上の人物で、時の権力者であった平清盛を打倒しようとクーデターを画策し、密告によって計画が露見し、島流しとされ、その地で生涯を終えた僧である。
罪に問われた人物は複数いて、同じ島に流された人物も他に二人いて、その二人は、のちに恩赦を受けて許され、都に戻ったのだが、俊寛だけは許されなかった。
その悲劇性は、後に日本の伝統芸能である能などで演目となるほど。

流刑地となった島は、たしか鬼界ヶ島(きかいがしま)。
あれ、でも硫黄島だったような気も…。
あれ、伊王島も”いおうじま”って読むな…。

調べてみると、いくつか説があるようで、俊寛が流された島は、鹿児島の離島である喜界島か硫黄島、あるいは、この長崎の伊王島の三つの説があるそう。
そして、俊寛僧都のお墓もあると分かったので、お参りすることにした。

―ただ、相変わらず道が分からない。
伊王島港の駐車場に車を停めて、丘を登るようなのだが、どれがその道なのか、今一つ分からない。
自信なさげに上った三つ目のルートは正しかったようで、民家や、小さい畑を通りながら、やっとたどり着いた。

事前に調べていた写真で見ると、もっと荒れ果てたイメージだったが、小さな公園として整備されており、その悲劇的な生涯を感じさせない、意外と明るい雰囲気だった。

墓碑の上には、夏みかんだろうか、橙色の柑橘の木があり、隣には北原白秋の歌碑が建てられていた。

いにしえの流され人もかくありて  すゑいきどおり海をにらみき

昔、流された人もこのようにいて、末に憤慨して、海を睨んでいた  ーーー?

海は直接は見えないな、、、地形が変わったのかな、、、
公園にはなっているし、公共トイレもあったけれど…。
港から登りばかりのこの児童公園に、果たして遊びに来る子供たちがいるのだろうか???と変に危惧してしまった。

再び歩を港への道に向けて、降りていくと、海を見渡せる風景がとてもきれいで、価値ある時間だった。

ちなみに!

伊王島の、”いおう”の由来はいくつかあり、、、
1.古代、神功皇后が新羅討伐の際に寄港し、きれいな島だと感嘆し、”祝う島”と歌ったのが転じた。
2.魚を古語で”イヲ”と言い、漁場として豊かだったことから(今も釣りの絶景ポイントして知られる)。
3.古くから、温泉が湧き、においの元である”硫黄”が転じた。
4.中国の海神の名前から名付けた。
など、四つの説がある模様。

太平洋戦争時代には、この島の名前を持つ軍艦”伊王”が存在し、戦争を生き残って、海外に駐留していた日本人を送り戻す任務を負った。

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