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ファーストトマト 軍艦島 高島

高島一周3。

軍艦島の正式名称は、端島(はしま)と言い、要は高島から見て、端っこの島。

中世の行政が確立したころには、すでに高島とセットで認識されていたようだ。


明治に入って、無尽蔵の炭鉱が発見され、炭鉱夫として働き手が集まり、高層住宅が島には立ち並び、世界一の人口密集地となった。
手前に見える中ノ島にも無尽蔵の炭鉱が発見されたが、地下水のコントロールが出来ず、事故が多発したことから、炭鉱経営は早くに断念され、端島の方に、経営資源が集中したらしい。

廃墟と化した端島の団地群の一部の窓枠からは、向こう側の海や空もはっきりと見え、中の建造物が崩れているだろうことが伺い知れた。

その団地群が、旧日本軍の軍艦”土佐”に似ていることから、いつしか”軍艦島”と呼ばれるようになった。

↑ 軍艦島の模型。

2015年には、明治維新を支えた産業革命の遺物として、世界遺産群に指定され、高島を経由して端島の周囲を回ったり、上陸する軍艦島クルーズが人気なのだそうだ。

ふと、その端島を背にして振り返り、トマトのハウスがあった方に目を運ぶと、こちらもやはり、ほぼ廃墟になった団地群が立ち並んでおり、なんとも言えない気分になった。


団地に囲まれたところには、真新しいハウス郡があり、この島の、とてもとても重要な産業だと強く思った。

その風景を見ながら、設置された説明文を読んだところ、今立っている丘は、元々、高島とは別の二つの島だった。
少し驚いた。

増える人口を支えるため、まず”上二子島(写真右にある丘)の”と”下二子島(今いる”軍艦島が見える丘”)”の間の海を埋め、さらに、高島との間を埋めて陸続きになった。
炭鉱から出る、”ボタ”と言う石炭のなりそこないみたいなもので埋めたそうな。

↑ ボタ。土が露出しているところには、島中に落ちていた。

丘を再び降り、再び真っ平らな道に出ると、なるほど、なぜその道が真っ平らなのかがよく分かった。
埋立地だからだ。

右手には、はたまた、だだっ広いサッカーグラウンドがあり、伸びきった草に、哀愁が漂っていた。

横断したい気持ちになり、グラウンドを踏みしめた。

両脇には、サッカーゴールのポストもあるし、新しかっただろうが、使われた痕跡が見られない、広いトイレ設備もあった。
周囲にはサイクリングロードがあり、ランニングできるようにもなっている。

グランドから、徒歩10分ほど。

再び私は高島港に着いた。

なんとなく、寂しい気持ちになりながら。

一周する間に、すれ違った人は2人。
すれ違った車も2台。
猫は多数。

発展するファーストトマト事業の脇で起こっている事を五感で感じてしまった。

港内の店番に戻っていた木下さんが、いつもの笑顔で迎え入れてくれ、少しほっとした。

「ごめんねー、一人にさしちゃって~、ほんとスミマセン~」と謝られてしまった。

自分で望んだことなので、まったく気にしてはいなかったけれど、この、高島のファーストトマトを、しっかり大事にしていこうとまた強く思った。

木下さんに見送られながら、18時発の高速フェリーに乗り込み、高島を後にした。
伊王島に停めたレンタカーに乗り込み、伊王島の灯台を拝んだ後、長崎空港に向かった。

飛行機は21時20分発だけれども、レンタカーの閉店時間が20時であることを思い出し、一生懸命、運転した。
危ないところだった。

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